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二時間目に白墨(はくぼく)を持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り込(こ)むような気がした。教場へ出ると今度の組は前より大きな奴(やつ)ばかりである。おれは江戸(えど)っ子で華奢(きゃしゃ)に小作りに出来ているから、どうも高い所へ上がっても押(お)しが利かない。喧嘩(けんか)なら相撲取(すもうとり)とでもやってみせるが、こんな大僧(おおぞう)を四十人も前へ並(なら)べて、ただ一枚(まい)の舌をたたいて恐縮(きょうしゅく)させる手際はない。しかしこんな田舎者(いなかもの)に弱身を見せると癖(くせ)になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった
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編集 2009/11/19(木) 21:30 No.10
いよいよ学校へ出た。初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒はやかましい。時々図抜(ずぬ)けた大きな声で先生と云(い)う。先生には応(こた)えた。今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥(うんでい)の差だ。何だか足の裏がむずむずする。おれは卑怯(ひきょう)な人間ではない。臆病(おくびょう)な男でもないが、惜(お)しい事に胆力(たんりょく)が欠けている。先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲(どん)を聞いたような気がする。最初の一時間は何だかいい加減にやってしまった。しかし別段困った質問も掛(か)けられずに済んだ。控所(ひかえじょ)へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。
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編集 2009/11/19(木) 21:29 No.9
月給をみんな宿料(しゅくりょう)に払(はら)っても追っつかないかもしれぬ。五円の茶代を奮発(ふんぱつ)してすぐ移るのはちと残念だが、どうせ移る者なら、早く引き越(こ)して落ち付く方が便利だから、そこのところはよろしく山嵐に頼(たの)む事にした。すると山嵐はともかくもいっしょに来てみろと云うから、行った。町はずれの岡の中腹にある家で至極閑静(かんせい)だ。主人は骨董(こっとう)を売買するいか銀と云う男で、女房(にょうぼう)は亭主(ていしゅ)よりも四つばかり年嵩(としかさ)の女だ。中学校に居た時ウィッチと云う言葉を習った事があるがこの女房はまさにウィッチに似ている。
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編集 2009/11/19(木) 21:29 No.8
昼飯を食ってから早速清へ手紙をかいてやった。おれは文章がまずい上に字を知らないから手紙を書くのが大嫌(だいきら)いだ。またやる所もない。しかし清は心配しているだろう。難船して死にやしないかなどと思っちゃ困るから、奮発(ふんぱつ)して長いのを書いてやった。その文句はこうである。
「きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋へ茶代を五円やった。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寝られなかった。清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今にいろいろな事を書いてやる。さようなら」
 手紙をかいてしまったら、いい心持ちになって眠気(ねむけ)がさしたから、最前のように座敷の真中へのびのびと大の字に寝た。今度は夢も何も見ないでぐっすり寝た。この部屋かいと大きな声がするので目が覚めたら、山嵐がはいって来た。
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編集 2009/11/19(木) 21:29 No.7
挨拶が一通り済んだら、校長が今日はもう引き取ってもいい、もっとも授業上の事は数学の主任と打ち合せをしておいて、明後日(あさって)から課業を始めてくれと云った。数学の主任は誰かと聞いてみたら例の山嵐であった。忌々(いまいま)しい、こいつの下に働くのかおやおやと失望した。山嵐は「おい君どこに宿(とま)ってるか、山城屋か、うん、今に行って相談する」と云い残して白墨(はくぼく)を持って教場へ出て行った。主任の癖に向うから来て相談するなんて不見識な男だ。しかし呼び付けるよりは感心だ。
 それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。
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編集 2009/11/19(木) 21:29 No.6
この英語の教師もうらなりばかり食ってるに違(ちが)いない。もっともうらなりとは何の事か今もって知らない。清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。大方清も知らないんだろう。それからおれと同じ数学の教師に堀田(ほった)というのが居た。これは逞(たくま)しい毬栗坊主(いがぐりぼうず)で、叡山(えいざん)の悪僧(あくそう)と云うべき面構(つらがまえ)である。人が叮寧(ていねい)に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給(きたま)えアハハハと云った。何がアハハハだ。そんな礼儀(れいぎ)を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。おれはこの時からこの坊主に山嵐(やまあらし)という渾名(あだな)をつけてやった。漢学の先生はさすがに堅(かた)いものだ。昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご励精(れいせい)で、――とのべつに弁じたのは愛嬌(あいきょう)のあるお爺(じい)さんだ。画学の教師は全く芸人風だ。
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編集 2009/11/19(木) 21:29 No.5

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