前略。歌よみの如く馬鹿な、のんきなものは、またと無之候。歌よみのいふ事を聞き候へば和歌ほど善き者は他になき由いつでも誇り申候へども、歌よみは歌より外の者は何も知らぬ故に、歌が一番善きやうに自惚(うぬぼれ)候次第に有之候。彼らは歌に最も近き俳句すら少しも解せず、十七字でさへあれば川柳(せんりゅう)も俳句も同じと思ふほどの、のんきさ加減なれば、まして支那の詩を研究するでもなく、西洋には詩といふものがあるやらないやらそれも分らぬ文盲浅学、まして小説や院本(いんぽん)も、和歌と同じく文学といふ者に属すと聞かば、定めて目を剥(む)いて驚き可申候。かく申さば、讒謗(ざんぼう)罵詈(ばり)礼を知らぬしれ者と思ふ人もあるべけれど、実際なれば致方(いたしかた)無之候。もし生の言が誤れりと思(おぼ)さば、いはゆる歌よみの中よりただの一人にても、俳句を解する人を御指名可被下(くださるべく)候。生は歌よみに向ひて何の恨(うらみ)も持たぬに、かく罵詈がましき言を放たねばならぬやうに相成候心のほど御察被下(おさっしくだされ)たく候。
歌を一番善いと申すは、固(もと)より理窟もなき事にて、一番善い訳は毫(ごう)も無之候。俳句には俳句の長所あり、支那の詩には支那の詩の長所あり、西洋の詩には西洋の詩の長所あり、戯曲院本には戯曲院本の長所あり、その長所は固より和歌の及ぶ所にあらず候。理窟は別とした処で、一体歌よみは和歌を一番善い者と考へた上でどうするつもりにや、歌が一番善い者ならば、どうでもかうでも上手でも下手でも三十一文字(みそひともじ)並べさへすりや、天下第一の者であつて、秀逸と称せらるる俳句にも、漢詩にも、洋詩にも優(まさ)りたる者と思ひ候者にや、その量見が聞きたく候。最も下手な歌も、最も善き俳句漢詩等に優り候ほどならば、誰も俳句漢詩等に骨折る馬鹿はあるまじく候。もしまた俳句漢詩等にも和歌より善き者あり、和歌にも俳句漢詩等より悪(あし)き者ありといふならば、和歌ばかりが一番善きにてもあるまじく候。歌よみの浅見(せんけん)には今更のやうに呆(あき)れ申候。
俳句には調がなくて和歌には調がある、故に和歌は俳句に勝(まさ)れりとある人は申し候。これは強(あなが)ち一人の論ではなく、歌よみ仲間には箇様(かよう)な説を抱く者多き事と存候。歌よみどもはいたく調といふ事を誤解致しをり候。調にはなだらかなる調も有之、迫りたる調も有之候。平和な長閑(のどか)な様を歌ふにはなだらかなる長き調を用うべく、悲哀とか慷慨(こうがい)とかにて情の迫りたる時、または天然にても人事にても、景象(けいしょう)の活動甚しく変化の急なる時、これを歌ふには迫りたる短き調を用うべきは論ずるまでもなく候。しかるに歌よみは、調は総(すべ)てなだらかなる者とのみ心得候と相見え申候。かかる誤(あやまり)を来すも、畢竟(ひっきょう)従来の和歌がなだらかなる調子のみを取り来りしに因(よ)る者にて、俳句も漢詩も見ず、歌集ばかり読みたる歌よみには、爾(し)か思はるるも無理ならぬ事と存候。さてさて困つた者に御座候。なだらかなる調が和歌の長所ならば、迫りたる調が俳句の長所なる事は分り申さざるやらん。しかし迫りたる調、強き調などいふ調の味は、いはゆる歌よみには到底分り申す間敷(まじき)か。真淵は雄々(おお)しく強き歌を好み候へども、さてその歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。「飛ぶ鷲(わし)の翼もたわに」などいへるは、真淵集中の佳什(かじゅう)にて強き方の歌なれども、意味ばかり強くて調子は弱く感ぜられ候。実朝をしてこの意匠を詠ましめば箇様な調子には詠むまじく候。「もののふの矢なみつくろふ」の歌の如き、鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強き事は並ぶ者なく、この歌を誦(しょう)すれば霰(あられ)の音を聞くが如き心地致候。真淵既にしかりとせば真淵以下の歌よみは申すまでもなく候。かかる歌よみに、蕪村派(ぶそんは)の俳句集か盛唐(せいとう)の詩集か読ませたく存候へども、驕(おご)りきつたる歌よみどもは、宗旨以外の書を読むことは、承知致すまじく、勧めるだけが野暮(やぼ)にや候べき。
御承知の如く、生は歌よみよりは局外者とか素人(しろうと)とかいはるる身に有之、従つて詳(くわ)しき歌の学問は致さず、格が何だか文法が何だか少しも承知致さず候へども、大体の趣味如何(いかん)においては自ら信ずる所あり、この点につきてかへつて専門の歌よみが不注意を責むる者に御座候。箇様に悪口をつき申さば生を弥次馬(やじうま)連と同様に見る人もあるべけれど、生の弥次馬連なるか否かは貴兄は御承知の事と存候。異論の人あらば何人(なんぴと)にても来訪あるやう貴兄より御伝へ被下(くだされ)たく、三日三夜なりともつづけさまに議論可致(いたすべく)候。熱心の点においては決して普通の歌よみどもには負け不申候。情激し筆走り候まま失礼の語も多かるべく御海容可被下(ごかいようくださるべく)候。拝具。
(明治三十一年二月十八日)
歌を一番善いと申すは、固(もと)より理窟もなき事にて、一番善い訳は毫(ごう)も無之候。俳句には俳句の長所あり、支那の詩には支那の詩の長所あり、西洋の詩には西洋の詩の長所あり、戯曲院本には戯曲院本の長所あり、その長所は固より和歌の及ぶ所にあらず候。理窟は別とした処で、一体歌よみは和歌を一番善い者と考へた上でどうするつもりにや、歌が一番善い者ならば、どうでもかうでも上手でも下手でも三十一文字(みそひともじ)並べさへすりや、天下第一の者であつて、秀逸と称せらるる俳句にも、漢詩にも、洋詩にも優(まさ)りたる者と思ひ候者にや、その量見が聞きたく候。最も下手な歌も、最も善き俳句漢詩等に優り候ほどならば、誰も俳句漢詩等に骨折る馬鹿はあるまじく候。もしまた俳句漢詩等にも和歌より善き者あり、和歌にも俳句漢詩等より悪(あし)き者ありといふならば、和歌ばかりが一番善きにてもあるまじく候。歌よみの浅見(せんけん)には今更のやうに呆(あき)れ申候。
俳句には調がなくて和歌には調がある、故に和歌は俳句に勝(まさ)れりとある人は申し候。これは強(あなが)ち一人の論ではなく、歌よみ仲間には箇様(かよう)な説を抱く者多き事と存候。歌よみどもはいたく調といふ事を誤解致しをり候。調にはなだらかなる調も有之、迫りたる調も有之候。平和な長閑(のどか)な様を歌ふにはなだらかなる長き調を用うべく、悲哀とか慷慨(こうがい)とかにて情の迫りたる時、または天然にても人事にても、景象(けいしょう)の活動甚しく変化の急なる時、これを歌ふには迫りたる短き調を用うべきは論ずるまでもなく候。しかるに歌よみは、調は総(すべ)てなだらかなる者とのみ心得候と相見え申候。かかる誤(あやまり)を来すも、畢竟(ひっきょう)従来の和歌がなだらかなる調子のみを取り来りしに因(よ)る者にて、俳句も漢詩も見ず、歌集ばかり読みたる歌よみには、爾(し)か思はるるも無理ならぬ事と存候。さてさて困つた者に御座候。なだらかなる調が和歌の長所ならば、迫りたる調が俳句の長所なる事は分り申さざるやらん。しかし迫りたる調、強き調などいふ調の味は、いはゆる歌よみには到底分り申す間敷(まじき)か。真淵は雄々(おお)しく強き歌を好み候へども、さてその歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。「飛ぶ鷲(わし)の翼もたわに」などいへるは、真淵集中の佳什(かじゅう)にて強き方の歌なれども、意味ばかり強くて調子は弱く感ぜられ候。実朝をしてこの意匠を詠ましめば箇様な調子には詠むまじく候。「もののふの矢なみつくろふ」の歌の如き、鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強き事は並ぶ者なく、この歌を誦(しょう)すれば霰(あられ)の音を聞くが如き心地致候。真淵既にしかりとせば真淵以下の歌よみは申すまでもなく候。かかる歌よみに、蕪村派(ぶそんは)の俳句集か盛唐(せいとう)の詩集か読ませたく存候へども、驕(おご)りきつたる歌よみどもは、宗旨以外の書を読むことは、承知致すまじく、勧めるだけが野暮(やぼ)にや候べき。
御承知の如く、生は歌よみよりは局外者とか素人(しろうと)とかいはるる身に有之、従つて詳(くわ)しき歌の学問は致さず、格が何だか文法が何だか少しも承知致さず候へども、大体の趣味如何(いかん)においては自ら信ずる所あり、この点につきてかへつて専門の歌よみが不注意を責むる者に御座候。箇様に悪口をつき申さば生を弥次馬(やじうま)連と同様に見る人もあるべけれど、生の弥次馬連なるか否かは貴兄は御承知の事と存候。異論の人あらば何人(なんぴと)にても来訪あるやう貴兄より御伝へ被下(くだされ)たく、三日三夜なりともつづけさまに議論可致(いたすべく)候。熱心の点においては決して普通の歌よみどもには負け不申候。情激し筆走り候まま失礼の語も多かるべく御海容可被下(ごかいようくださるべく)候。拝具。
(明治三十一年二月十八日)
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